NIMRA 2013年の研究会

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2013年総会

日 時:1月24日(木)19:00〜21:00
場 所:リビエール(栄)
内 容:
 2012年決算、2013年役員人事、2013年事業計画について審議し承認を得た。
 会長:鈴木 信好

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2013年2月例会

日 時:2月20日(水)19:00〜20:30
場 所:I.C. Nagoya 教室 (名駅永田ビル2階)
講 師:丸山 茂樹 氏 (株式会社エヌ・アイ・エス、NIMRA会員)
テーマ:「TPP を皆で考える」
開催案内
 毎年、2月例会では外国人就労問題を取り上げてきました。アベノミクスの3本の矢の3本目は成長戦略です。成長戦略の中で政治的にはTPPが焦点となります。政府はTPPについてどのような姿勢をとるのか? 参議院選挙を前に自民党の大半は反対と言っていますが、そうなった場合の成長戦略は可能なのか? 鎖国か開国かの瀬戸際との表現が適正なのか。 日本という国の1億人の生活維持をする為に何を残して何を捨てるのか、アジア・太平洋の中での選択と集中を参加者の皆さんと議論しながら考えたいと思います。

講演内容
 アベノミクスの3本の矢の3本目である成長戦略中で焦点となっているTPP交渉参加問題について、最近の新聞記事を参考にしながら出席者の間で意見交換した。以下、出席者からの意見を列記する。

【TPPについて】
・客観的に考えると日本の農業には既に守るべきものはない。しかし、農家の立場では市場開放は大問題となる。立場によってTPPへの賛否が変らざるを得ない。
・農業は日本のGDPの1%に過ぎないので、TPP問題の中心ではないだろう。
・TPP参加によって商品の選択肢が増えることは消費者として歓迎。例えば91年の牛肉の輸入自由化のお蔭で、子供に牛肉を沢山食べさせられるようになった。和牛と比較すれば味は劣るが、それは使い分ければいい。
・TPP参加によって、既得権益が破壊されて、高いものから安いものまで消費者の選択の幅と利益が広がるなら、大賛成。例えばオレンジなどの過去の輸入自由化騒動でも本当に良いものは無くならなかったので心配しなくてよい。
・食品に関しては、TPPに参加すると規制が緩和されて農薬やBSEなどの安全性が確保されなくなるなどの不安要素があるとの意見もある。TPP推進派がこの点をどう考えているか聞いてみたい。
・日本の規制社会は、利権構造や高コスト体質などのマイナス面もあるものの、お蔭で安全で快適な暮らしを作り上げて来た。規制社会の良い面は維持したい。
・TPPの中で、社会システム(健康保険制度等)を共通化しようとすることに無理がある。小さな国ならともかく、日本とアメリカが聖域なき関税撤廃などやる必要もないし、やるべきでもない。
・中国を牽制する為に、TPPには参加せざるを得ない。
・アメリカが日本にTPPを執拗に迫るのには裏の理由があるのではないか。農業ではなく、サービス分野や資本・金融分野などで、日本の富を狙っているのではないか。

【TPPを越えて】
・TPPをどうするかでなく、日本をどういう国にするかを議論すべき。日本のTPPの議論は、まるで幕末に通商条約をどするか開国か攘夷かで争っているのと同じであり、ナンセンス。
・TPPも含めて、日本国民は、様々な生の情報を得て、もっと自分たちの生活の目線で日本の将来を考えなければならない。
・少子化の方が、TPPよりも影響が大きい。
・日本の教育と若者の学力低下が大きな問題。若者が無関心である限り、TPPの議論も「針小棒大」。
・国力が落ちてきた日本に対する視線は東南アジアでも変わりつつある。国内の日本人は未だ昔日の栄光に酔っている。既に国境は無くなったと自覚した国民のみ生き残れる。ITとLCCは大きく世界を変えつつある。

【担当幹事より】
 多くの出席者を得て「発題者」として関心の高さに驚きました。NIMRAの強さもこのような所にあるのだとも、再確認した次第です。
(文責:MT)

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2013年3月例会

日 時:3月21日(木)19:00〜20:30
場 所:I.C. Nagoya 教室 (名駅永田ビル2階)
講 師:木村 一成 氏(写真家・名古屋ビジュアルアーツ講師)
テーマ:「レンズが見た都市の叙情」

開催案内

 2009年から2年間、木村氏は名古屋市内16区を歩きまわり、「白い街」「味気ない街」などと呼ばれてきた街にも、叙情というような色気を見いだせないか…と撮影を続けてきましたが、それが2011年12月に、写真集『叙情都市名古屋』に結実しました。

 撮影期間中に東日本大震災があり、当たり前と思っていた風景が数時間で消えてしまう現実を見ると、名古屋のアトモスフィアといった形のないものを風景写真のなかに記録しておく必要性もより強まったように思います。この写真紀行を通じて見えてきたものは何か?を語ってもらい、皆さまとともに、味わえたらいいと思っています。

講演内容

【司会(歴遊舎 岩月)より】
 冒頭で、岩月が地域出版のなかで名古屋の歴史や記録をどのように発掘してきたかをここ10年ほどの自社の出版物をとおして紹介しました。

 『古地図に見る名古屋』によって、城下町から都市への平面構造の移り変わりを確かめ、次に、『名古屋今昔写真集』(全3巻)で明治以降の街並みや風景の移り変わりを現況との対比のなかから見るという、歴史資料の保存と広範な活用を目指しました。
 こうした名古屋発掘の作業をすすめるなかで、歴史資料のみならず、芸術活動のなかで、名古屋はどうとらえられてきたのか…を「写真」という表現にかぎって調べてみました。

 戦前・戦後の市内風景をドキュメントした、臼井薫さんの個人出版による写真集を紹介し、その後、名古屋を被写体とする写真記録や表現は、継承されていったのかどうかと問いました。

 人物のドキュメンタリー写真に、素晴らしい才能を発揮しておられた木村一成さんとともに、「白い街」「のっぺりした街」「個性のない街」などと揶揄されてきた名古屋が、最近、ずいぶんと様変わりし、昔日のイメージとは異なって見えてきた理由のようなものを写真で捉えてみようということになりました。得体の知れないものを表現するには苦労しますが、レンズで見た名古屋は、いったい、どんな風景に写るのか…を実験してみることにしました。

【木村一成さんの話】
 高度経済成長期の名古屋の日常風景を撮影した寺西二郎、90年代の名古屋を遊び心で撮影した、ライカ同盟『写激 ライカ同盟名古屋を撮る』の赤瀬川原平・秋山祐徳太子・高梨豊の各氏は、それぞれ興味深い写真を残してくれたけれども、最近名古屋がなぜか美しくみえる…という「気分」は、まだ誰も挑戦したことがない被写体だと思った。

 初めは、とにかく歩いてみようということで、岩月が運転する車で、市内各所を巡りながら、心にとまったアングルを見つけると、そこで車を降りて、町中を歩きながら撮影する…という繰り返し。

 「名古屋が最近なぜか美しく見えてくる」という疑問に対して、ひとまず岩月から「叙情」というキーワード(切り口)をもらっていたものの、自分の中で消化し切れていなかった。

 そこで、幼少時の記憶から、自分と名古屋の接点であった中村区の向野跨線橋を撮影の原点と定め、当時の思い出の風景と現在見える風景との対比をしているうちに、なんとなく都市風景に親しみが湧き、そこに住まう人と出会って話を交わし、人物を撮らせてもらっているうちに、「安気な」街という姿が写真に写るようになり、この感じが、名古屋の魅力として表現できるのではないかと思えるようになり、やっと何かをつかめそうだというイメージにつながった。

【講師からの解説、参加者との意見交換】
 写真撮影では、風景のなかに三角形を意識して撮影する方法や、縦横2本ずつの補助線を引き、その交点となる4か所にポイントを収めると、安定した写真になる…という撮影法の話があった。

 写真には足し算と引き算があり、わざとゴチャゴチャと背景を含めて説明する記録性の高い写真と、対象を絞って背景の映り込みを抑える狙い方の写真もある…という構図と撮影意図との説明があった。

 自分は幸運なのだと思っていると、どういうわけか、そこに欲しい人物がふっと写ってくれたりするが、思っているとやってくるシャッターチャンスとは、巫女さんの神おろしと同じであるような気がする…という、いささか不思議な話もあった。

 フォトジェニックという、いかにも写真になる…という“写真らしさ”を発見する眼力の話などもあり、撮影エピソードを混ぜながら、写真集『叙情都市名古屋』にセレクトされた1枚1枚の写真を解説。

 平和公園の墓石群と名古屋高層ビル群との対比を縦位置に収めた1枚について、戦後の都市復興計画で新設された平和公園が、空襲で焦土と化した市街地の墓所をほとんどすべて引っ越させて出来たものである歴史を踏まえた上での、市街地中心部との対比に、ジャーナリスティックな批評性も浮かび上がってくるという指摘もあった。

 最後は、『叙情都市名古屋』から離れて、過去の作品である一宮市の真清田神社横の廃れゆく商店街で人物を中心に生活記録を追っていた20代の作品の紹介や、娘が生まれるまでのドキュメンタリー写真の公開もあり、木村一成というカメラマンの眼差しに触れることができた貴重な時間となった。

【まとめ】
 岩月は、30年近く活字表現や記録写真によって地域史を掘り起こす仕事を続けてきたので、今の出来事や風景を記録にのこすということにためらいがあったので、『叙情都市名古屋』にも工業都市の側面あるいは手仕事職人気質の風俗、港町でありながら港湾部と市街中心部が遠くて、水辺に対する親しみの薄い都市構造、名駅高層ビル群が建つまでは立体感に乏しかった景観、職住一体都市を証明するかのように商業地に昭和期の古い民家が無造作にのこる面白さなど、写真を利用して描きたかったのですが、それを拒絶したのが、木村一成さんの写真でした。

 初めは、これらの写真を主役にしながらも、東京新聞写真部が制作した写真集『TOKYO異形』のようなジャーナリスティックな側面も持たせたかったのですが、写真1枚1枚がやはり独立した「作品」として報道写真とも解説写真とも完全に一線を画す力を有していたので、個人写真集になりました。自分が本当に撮りたい追究したい写真とはまた違うタッチの写真であると、木村さんは語っていますが、彼の感受性がとらえた何かを大切にしたいと思いました。

 彼がレンズを通して発見した「安気な」街という顔が、寛容で呑気でいられたかつての日本を彷彿とさせ、それが動態保存されているかのような場所が名古屋であり、無造作で飾らない街のようすが、そのまま懐かしい時代につながっているということなのだと思います。ここが「叙情」のポイントでしょう。

 写真に付された木村さんのコメントもよかったという評価もいただき、なかには、詩のようだと表現された方もおられましたが、今回の講演会でも、写っていないものへの言及や説明は少なく、それぞれの皆さんが写真を見て、それぞれに思ってくださればいい…という表現者ならではの思いもあって、それが、あの短いキャプションにつながっているのだと思います。

 写真は撮られた瞬間から、過去の記録で、すでに懐かしさを帯びてしまうものですから、ある意味、あらゆる写真には叙情があるとも言えるのですが、木村一成さんならではの、名古屋における叙情というものの解釈が、あの色調・あのアングル・あのタイミングにあるのだと思います。ついつい説明が言葉による過剰さを求めますが、多くの説明を加える前に、1枚1枚の写真と向き合ってほしいという芸術家のメッセージが、今回の講演会の主意だったように思います。 (文責:MI)

講師プロフ:
1966年生まれ。日本写真家協会会員。
名古屋ビジュアルアーツ写真学科講師。
幅広いメディアの撮影を手掛けるかたわら、知的障碍者を撮影したルポルタージュ作品や都市風景に叙情を求めた写真集『叙情都市名古屋』など、カメラ・アイは何をとらえうるのか…という問いかけをつづける。
別の顔に「テンカラ」という日本古来の渓流釣り漁法の第一人者でもあり、釣り方面での写真集や解説書・DVDなども多い。

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2013年4月例会

日 時:4月24日(水)19:00〜20:30
場 所:I.C. Nagoya 教室 (名駅永田ビル2階)
講 師:Steve Burson 氏(H&R Consultants 株式会社代表取締役、Relo Japan 株式会社代表取締役、在日米国商工会議所 副会頭)
テーマ:「Is Nagoya an international city?」

開催案内

国際都市を標榜する名古屋ですが、私は常々、国内外の他の都市に比較し、外国人にとって住みやすい街なのか、そして今後も住み続けてくれる街なのか疑問をもっています。そこで今回は名古屋を中心に諸外国でリロケーションサービスを展開するスティーブさんを講師にお迎えし下記のような内容でお話しを頂きたいと思います。

・なぜ名古屋を選ぶのか?
・外国から来た人が東京でも大阪でもなく、なぜ名古屋を選択するのか?
・外国人にとっていい街や住宅とは?
・外国人はどんな住環境や利便施設を重要視し、どんな住居を好むか?
・名古屋にはなにが足らないか?
・国内や海外の大都市に比べ、インフラ等で名古屋に欠けているものはなにか?

これらのお話しを伺うことを通して、国際的な観点からの街づくりを一緒に議論しながら考える機会としたいと思います。なお講義は基本的に日本語で行います。

講演内容

 講演は、スティーブ氏の経歴紹介、リロケーションサービスの紹介、名古屋について思うことの順で進められた。

 リロケーションサービスとは不動産の仲介とはやや異なり、住居の斡旋から始まり生活や仕事のスタートアップまでも支援するサービスである。例えばガスや電気のスイッチの入れ方やごみの出し方、事件や事故の場合の対応方法なども国によって大きく異なる場合があるので、アドバイスを行いトラブルの解決のサポートを行っているようである。

 名古屋については、良い点として
(1)東京のように都会すぎなく静かな環境
(2)住宅コスト等が安い
(3)日本の中心に位置し、交通アクセスが充実している
足りないものとして
(4)国際的なブランドのホテルが少ない
(5)空港を集約して活性化させる発想がない
(6)六本木ヒルズのように外国人にとって職住接近の利便性が高い街がない
などが挙げられた。

 特に(6)について、名古屋では守山区に海外の教育プログラム(国際バカロレア・ディプロマ・プログラム( International Baccalaureate Diploma Program)の認定校があるが、生徒の多くは名東区や千種区に住み、その親の勤務地は中区や三河に行くなど、外国人にとって必要な施設がバラバラに点在してしまっているという指摘があった。

 思えば子供が小さい時のプリスクールのアクセスなどは日本人の待機児童の問題と同様に深刻な問題で、子供が育てやすい環境の有無が外国人にとっても住みやすい街か否かの重要な判断基準になるようである。

 名古屋の街づくりという観点では、優れた自動車産業や航空機産業があるのでこれらの産業の振興こそが人を呼び込み、街を作るための最適な方法と考えがちである。しかし子供が育てやすく安心・安全な環境を作り、人が住みたいと思う街を作ることこそ先決であり、いろいろな人が集まり交流するなかで新たなアイディアやビジネスも生まれてくるのではないのか・・・。
 実際にスティーブ氏が、高校時代に交換留学生としてニュージーランドから愛知県に来て、「街が気に入った」という極めてシンプルで力強い理由からこの地に生活の拠点を構え、国内外の都市で新しいビジネスを展開しているという話を聞き、そう確信した。(文責:YT)

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2013年5月例会

日 時:5月23日(木)19:00〜20:30
場 所:I.C. Nagoya 教室 (名駅永田ビル2階)
講 師:岡本 広明 氏 (独立行政法人 都市再生機構 中部支社長)
テーマ:「URの都市再生事業と栄地区の都市再生について」

内 容
 今月は、URの都市再生事業について、住宅開発・都市開発のエキスパートである岡本氏から各地で行われた多くのプロジェクトの事例解説も交えて説明していただいた。また、検討が進む名古屋栄地区の都市整備事業についても最新情報をもとにお話しいただいた。

 URが都市再生事業において果たす主要な役割は、「民間都市再生事業の支援」と「地方公共団体のまちづくり支援・補完」である。具体的には、まちづくり構想の策定や関係者の合意形成あるいは民間再開発事業の事務局支援など、各段階においてコーディネーターとしてサポート機能を発揮している。また、土地の先行取得、市街地再開発事業や公共施設整備への事業主体としての参画など、主要な役割を果たしている。

 都市再生事業の代表的な手法は、「土地区画整理事業」と都市再開発法に基づく「市街地再開発事業」であるが、実際の都市再生事業では、これらの手法を有機的に組み合わせ、地区の実情や権利者の要請に合致した事業スキームを構築している。例えば、東京大手町の連鎖型都市再生PJでは、既存ビルに入居する権利者の業務を中断させることなく事業を行うため土地取得や区画整理事業・市街地再開発事業などの手法を4次に分けて進行させ完成させた。

 「栄地区の都市再生プロジェクト」については、「栄地区都市再生研究会」の報告書に基づき、「歩きたくなる広小路通」「久屋大通公園を活用した集客空間形成」をはじめとする各プロジェクト構想について説明があった。また、会員の脇坂氏からは「リニア開業」に関する資料に基づき、リニア開通が当地区にもたらす影響についてコメントがあった。

 その後、質疑応答に移ったが、栄地区の再生構想には旧耐震基準で建築された建物の建替計画が多く含まれるため、既存ビルを保存することの可能性について熱く討議がなされた。また、栄地区に集積する美術館やホールなどの文化施設をうまく結ぶことや各種イベントを活用すること、ハード面だけではなくソフト面を充実させることの重要性が提起された。また、名古屋と東京の対比と名駅と栄の対比は別次元の問題である。名古屋資本の新聞社や百貨店のビルが集積する栄地区の活性化には、名古屋市の積極的な姿勢が不可欠との指摘もなされた。

 いつもの例会より講演を早めに終え質疑応答の時間を増やしたが、やはり活発な意見交換となったので、これを中断し、2000年会に場所を移した。(文責:NS)

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2013年6月例会

日 時:6月26日(水)19:00〜20:30
場 所:I.C. Nagoya 教室 (名駅永田ビル2階)
講 師:高木 伸彦 氏 (NIMRA会員、愛知芸術文化センター勤務)
テーマ:「都市の文化装置 − 芝居小屋からトリエンナーレまで」

開催案内

 今年の8月10日から10月27日まで、現代アートの祭典、第2回あいちトリエンナーレが開催されます。愛知芸術文化センター、名古屋市美術館のほか、名古屋市内の長者町や納屋橋、岡崎市内のまちなかなどにも会場を拡げて、まちを巡りながら作品を楽しみ体験をしてもらえる企画を実現するため準備がすすんでいます。

 このような新たな試みの一方で、近年の名古屋の文化施設の動向をみると、厚生年金会館や勤労会館が閉館し、御園座の経営危機が表面化して、その再建策をめぐり地元企業や自治体に支援要請がなされるなど、大きな変化の波にさらされています。

 400年前に城下町として成立した名古屋の歴史をたどると、藩主、徳川宗春の時代には祭を奨励し多くの芝居小屋ができて、まちがたいへんな賑わいをみせ、19世紀には江戸時代最大の貸本屋といわれる大惣が繁盛し、明治期以降には、関西府県連合共進会や汎太平洋平和博覧会などの博覧会を契機としてまちが発展してきました。

 6月の例会では、名古屋の歴史の中で、芝居小屋、劇場、図書館、博物館、美術館など、どのような文化施設がつくられ、祭、博覧会、芸術祭など、どのようなイベントが開かれてきたかを鳥瞰的に眺めるとともに、それらの文化装置が都市においてどのような意味をもつのか、また、今後の可能性について、参加者の皆さんと意見交換をしながらお話ししたいと思っていますので、よろしくお願いします。

例会内容

 今年8月10日から10月27日まで開催される「第2回あいちトリエンナーレ」が間近に迫っていることから、題記テーマを取り上げて、400年前の名古屋城下町成立期から現代に至るまでの、祭り、見世物、博覧会、文化施設など、都市のアイデンティティや魅力の源泉となる様々な文化的要素=文化装置にはどのようなものがあるのかを紹介すると伴に、戦後開館した愛知県文化会館とそれを受け継ぐ愛知芸術文化センターやその他の文化施設の変遷を年表で比較し、トリエンナーレ開催に至るまでの近年の動向を俯瞰した。

 会員諸氏との意見交換では、トリエンナーレに対する提案から芸術文化センターの立地まで様々な観点から意見や疑問を戴いたが、主なものは次の通り。
・「トリエンナーレ」という言葉は一般にはなじみがなく分かりづらい。「愛知国際芸術祭」とした方がよいのではないか。
・市民参加型にしなければ成功しない。
・第1回トリエンナーレでは、長者町地区が一番面白かった。美術館の展示室ではなく、民間の場所を使っていたからだ。
・自分たち(県)だけでやろうとせず、民間を巻き込むことが重要。
・今回、会場を岡崎に拡げたのはよいと思うが、なぜ大須が抜けたのか。
・名古屋の文化施設の変遷をみると、旧文化会館を始めとして、厚生年金会館や勤労会館が数十年の短期でなくなってしまうのはなぜか。日本では古い建築が残らないのはなぜか。
・2000年にJRセントラルタワーズが開業し、2002年にオアシス21が完成しているが、その後の名駅地区と栄地区の発展の差に愕然とする。民が主体の開発と公が主体の開発の差か。
・明治期以降、日本は文化的なアイデンティティを捨ててきた。
・ネット時代の進展によって美術館や劇場など既存の文化施設の集客ができなくなるという見方には反対である。情報化が進むほど、本物を観たい、体感したいという欲求が高まる。トリエンナーレでも、これはという本物をみせて欲しい。

 以上の議論を踏まえて、トリエンナーレも、観なければ良し悪しをいえないので、まずは会場に足を運んだうえで評価をしようではないか、とのたいへんありがたい意見を頂戴しました。トリエンナーレの会期中に、NIMRA会員を対象とするトリエンナーレツアー(解説付き)を企画したいと思いますので、是非ご参加ください。(文責:NT)

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2013年7月例会

日 時:7月25日(木)19:00〜20:30
場 所:I.C. Nagoya 教室 (名駅永田ビル5階)
講 師:寺本 政司 氏 (中日新聞社会部・部次長、原発取材班キャップ)
テーマ:「原発報道の現場から」

開催案内

 中日新聞と東京新聞(中日新聞東京本社発行)は福島第一原発の事故以来、原発問題についてはいわゆる「反原発」「脱原発」の主張を明確に打ち出す姿勢を貫いてきました。その紙面は、高い評価と支持を得ている半面、厳しい反発や批判も浴びています。当日は具体的な紙面ももとにしながら、取材班が何を考えてそうした記事にしてきたか、どんな反響があったかなどを紹介して、皆さんと論議したいと思います。

 とんがった対立軸と数多くの論点を抱えるテーマだけに、時間が足りなくなる恐れもありますが、できるだけ冷静にかつ熱い議論ができればと考えています。

講師横顔 1963年、石川県穴水町生まれ。88年中日新聞社入社。敦賀支局、名古屋本社経済部、ニューヨーク支局などを経て2008年から名古屋本社社会部に所属。原発取材には敦賀時代からかかわり、東日本大震災と福島第一原発の事故の直後からは取材チームの主要メンバーのひとりとして、数多くのストレートニュースや連載、特集を紙面化してきている。

例会内容

■講演の要旨 ( 主語は寺本氏)

 大震災直後から「原発取材班」に加わった。原発にくわしい科学部は記者が3人だけ。原発取材経験がある記者を全社かき集めた。しかし現地には入れず、情報は東電・保安院の会見のみ。原子炉で何が起きているのかよくわからない状態がしばらく続いた。  事態が深刻化しメルトダウンが疑われる中で「どこまで書けばいいか」「パニックにならないか」と悩んだ。たとえば5日後の16日。冷却水がなくなった。悩んだ末に最終版見出しは「制御困難」とした。東電が会見で「実質的にコントロールできない状況」と述べたのを受けた。ネット上では後に「メディアは正しい報道をしなかった」と激しい批判を受けた。

 東電や保安院は会見で「想定外」という語をよく使った。記者には原稿には使うなと言った。あれだけの事故を起こしながら被災者に失礼だと。「アクシデント」「クリティカル」などのカタカナ語も一般の人にわかる語に直した。事故を矮小化したがる習性は変わっていなかった。

 「記事は客観的に」と教えられてきた。賛否を半分ずつ書けば客観性は担保できるとも。しかしそこには「客観性のワナ」がある。重要テーマには「賛成2:中間6:反対2」の法則がある。真ん中の6割に向けて記事を書いてこなかった。新聞の多くはチェルノブイリや東海で事故が起きると原発問題を集中的に取り上げたが、1年もたつと「熱」は冷めた。問題を6割の読者に向けて大きなテーブルに乗せられなかった。記者として責任があると思っている。

 今後は読者の判断材料になる記事を提供していきたい。たとえば安全保障との関係だ。核燃料サイクルで出るプルトニウムは管理にどんなコストがかかるか。核武装に傾く北朝鮮や中国の隣で日本もプルトニウムを扱うと緊張が高まり、日本の管理コストは高くなる。テロ警備や勤務者監視が必要になるからだ。それでも日本は「民主、自主、公開」の平和利用3原則を守れるか。消費増税は財政赤字を子孫に残さないためとされる。では核のゴミは子孫に残していいのか。

 私の中では脱原発は禁煙運動と一緒でいいと考える。反体制や政権打倒の運動とは無関係でいい。イデオロギーとは違う次元でもっと簡単に考えていけないか。

 日本の原発は9月に大飯が点検停止し再び稼働ゼロになる。その後、申請中の原発の一部が再稼働を認められ1月には動き出す流れだろう。この間こそが、日本は原発をどうするか国民的議論をできる最後の機会になるのではないか。その判断材料を記事として出していきたい。

■自由討論で出た主な意見

(「脱原発」に疑問を抱く立場から)

・放射能の人体への影響を示すデータが恣意的に操作され、必要以上に厳しい国際機関の数値が避難や除染に適用されている。15万人の避難は「メディアによる風評被害」だと思う。

・原発稼働ゼロは、化石燃料を年に5兆円も余分に買い、ボロボロの火力発電所を動かしてなんとかしのいでる状態だ。「フェイドアウト」と「輸出もOK」の中間の立場を支持する。

・広島は10年もたたないうちに復興した。残留放射能の影響はもっと科学的に論じられていい。

(「脱原発」を進めるべきの立場から)

・廃炉にどれだけ時間がかかるか。「まずいことは隠す」ところにまかせていいのか。原発を再稼働させるなら、その電力会社の役員は家族を原発のすぐわきに住ませろといいたい。

・福井県美浜出身だが原発はちっともうれしくない。「フェイドアウト」でも甘い。

・原子力ムラの構造的癒着が露呈した。もっと科学的な比較をしてクールな結論を出せないのか。

・原発問題はこうして論議が割れてしまう。しかもこの先、合意を得られる見通しはないと思う。このことこそが原子力というものが内在する「性(さが)」であり「業」ではないか。

(中間的な立場から)

・一般の人は放射能と放射線の違いも判らない。10年ほど議論して結論を出せばいい。

・判断するだけの材料がないし勉強不足でもあるが、原発への不信感だけは強い。事実に基づいたコンセンサスがないと、議論が成り立たない。

※自由討論は賛否入り乱れましたが、冷静に議論できたと思います (例会担当と文責MD)

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2013年 緑蔭講座

日 時:8月31日(土)〜9月1日(日)
行き先: 伊勢神宮 〜第62回 式年遷宮 外宮お白石持ち〜
講 師: 菅原 洋一 氏 (三重大学建築学科 教授)
テーマ:「伊勢参宮の立役者御師の屋敷を復元する」

内 容
 今年の緑陰講座は、伊勢神宮 第62回 式年遷宮に因み伊勢市に出かけた。参加者は、NIMRA会員10名、会員以外の方14名と多数の方が参加された。

 1日目は、まず伊勢神宮外宮前の フランス料理店「ボン・ヴィヴァン」で美味しい昼食を戴いた。この建物は逓信省の山田郵便局電話分室として大正12年に建造された歴史あるものだそうだが、如何にも緑陰講座に相応しい感じがした。

 昼食後は早速、菅原先生に「伊勢参宮の立役者御師の屋敷を復元する」というテーマで約1時間半ご講演頂いた。全国の檀家を掌握し莫大な利益を掌中に収めていた御師が明治の神宮改革により短期間の内にことごとく消滅したことは歴史のうねりの1コマとして興味深く感じた。また当時日本最大級の500人の宿泊が可能だったといわれる三日市太夫の屋敷を綿密な調査や検証に基づき想定復元するプロセスのお話からは伊勢参りに訪れた江戸時代の人々のエネルギッシュな姿を思い描くことができた。

 「お白石持ち」が予定より遅れているとの事であったので、時間調整を兼ねて「せんぐう館」に入った。昭和28年調製の外宮正殿御扉(実物)、外宮正殿の再現模型、装束神宝の調製工程品(見本)等がコンパクトに展示してあり、期待以上に理解し易かった。

 「お白石持ち」の陸曳への参加は、阿竹会員の地元である「宮後町(みやじりちょう)」の一員として、ほぼ白装束の姿で参加した。お白石を積んだ山車を奉献団の全員で引っ張り外宮の神域を目指すのだが、その速度には緩急があり、またリーダー達が唱和する木遣り歌が合図の役割を果たすなど賑やかなお祭りの要素に満ち溢れているように感じた。そして、外宮の神域に到着後、各自が受け取った2個の白石を白い布に包んで建て替えられた正殿まで運び御垣内の内院にお納めした。1300年にわたり連綿と受け継がれてきた行事であるが、究極のボランティア活動とも言える極めて合理的なシステムと感じた。

 「お白石持ち」行事の終了後は、江戸時代の花街古市に200年前から建つ登録有形文化財「麻吉旅館」に移動し早速懇親会を開始した。それぞれが式年遷宮についての自分の意見や感想を開陳し大いに盛り上がった。翌朝は斜面に立つ木造6階建て麻吉旅館の構造と情景を確認した。二日目は自由行動であったが、多くの参加者が近くの神宮徴古館農業館まで歩き、おかげ横丁と内宮の伊勢参りを行った。

 今回の式年遷宮の最初の行事は平成17年に行われたそうであり、多くの祭典と行事が行われている。我々は一連の儀式のごく一部に参加したに過ぎないが、地元の方と一緒に陸曳の綱を握り、新築された荘厳な正殿を至近距離から見ることができたのは貴重な体験であった。今回の参加者全員が次の20年後の式年遷宮を元気に迎えられることを願わずにはいられない。(文責:NS)

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2013年10月例会

日 時:10月23日(水)19:00〜20:30
場 所:名古屋国際センター 第3研修室(名古屋国際センタービル)
講師1:今井 正次 氏(三重大学名誉教授、建築計画学)
講師2:阿竹 克人 氏((株)阿竹研究所 所長、NIMRA会員)
テーマ: 伊勢神宮をめぐる話題
    「伊勢神宮125社めぐり」(今井)
    「伊勢神宮の成立に関する阿竹説」(阿竹)

開催案内

 伊勢神宮は最近遷御の儀を終えたばかりの外宮・内宮の両正宮に加えて別宮摂社末社所管社をあわせると総計125社からなる一大神社群である。今井先生は三重大学定年退職後奥様とこの125社のうち一般参詣が認められている神社をすべて回られたとのことで、その感想とあまり知られていない興味深い神社をご紹介頂く。

 伊勢を中心に分布する125社は内宮神社群と外宮神社群にはっきりと別れ、内宮群では鰹木は偶数(陰)で千木は内削ぎ、外宮群では鰹木は奇数(陽)で千木は外削ぎとなっている。また両群には月読宮(月夜見宮)風宮(風日祈宮)というように祭神が重なるものもある。記紀によれば皇祖神の天照大神を祭る内宮と、その食事を司る豊受大神を祭る外宮は、古く二所大神宮といわれたように主従にしてはあまりに同格すぎる。

 式年遷宮は壬申の乱に勝利した天武天皇が発意し、その妻である持統天皇が第一回目を行ったとされているが、今日の形の伊勢神宮はこの時にできたと言われる。ところが一方で天武天皇は同時に薬師寺の建立や国家仏教をおし進め、そして皇祖神であるにもかかわらず、祭祀は皇女であるい斎王が執り行い、天皇自身は明治時代まで全く参詣しなかった。伊勢神宮では、永く僧侶は参拝が許されず、仏教に関することは忌み言葉とされてきた。

 外宮神域の中心には日本最大の横穴石室を持つ高倉山古墳があり、考古学調査によればその成立は外宮の鎮座より新しいとされる。また建築的には弥生時代の穀物倉庫から発展した様式とされるが、平入りの神殿は伊勢だけである。

 このように伊勢神宮には多くの謎がある。そもそもなぜ、内宮と外宮なのか。これらの謎に対するきれいな回答である独断と偏見に満ちた阿竹説の概要が講演と言う形で初めて明かされる。 キーワードは日の出の神(内宮)・日没の神(外宮)。

講演内容

 今年が伊勢神宮の式年遷宮に当ることに因んで、緑蔭講座に続いての伊勢神宮をテーマに取り上げ、緑蔭でお話頂けなかった今井先生の伊勢神宮125社めぐりと阿竹氏による伊勢神宮成立に関する阿竹説を紹介した。

 今井先生が回られた伊勢神宮125社めぐりはJR東海の案内パンフレットにもとづいて行われたもので、125社が分布する13の地域に分けて紹介している。

 125社は、外宮内宮両正宮以下、別宮、摂社、末社、所管社をあわせた総数であるものの、一つの社に合祀されていたり、一般の参詣が認められないもの、一見して神社の形をしていないものなど様々があるが、地域の要衝をきちんと押えていて、誰が何時このような配置を決めたのか興味が尽きない。

 この125社は外宮神社群と内宮神社群に別れ、それぞれに月の神や風の神の別宮を持っている。記紀によれば外宮はアマテラスの食事の世話係として丹波から呼ばれたことになっているがそれにしては両者はあまりに同格である。

 伊勢神宮の成立に関する阿竹説は、もともと日の出を祭る伊勢と日没を祭る丹波の二つの太陽神の神社群が畿内をはさんで結界を結んでいたものが、仏教を国教化するのにともなって、結界を解き、丹波の皇大神宮(元伊勢内宮)を外宮として伊勢に移し、神々を祟られないように奉りつつ伊勢に封じ込めた。というものである。

 丹波の内宮はご神体として日室山という山があり、ここはアマテラスの墓所といわれ、夏至に山頂に太陽が没する。外宮のご神体は不明だが、神域内に高倉山があり、山頂には日本最大級の横穴石室がある。ここは天の岩戸といわれて、江戸時代には一般参詣が行われ石室前では天岩戸ショーが行われていた。

 今回の遷御の儀で外宮でも鳥の鳴き声を模した声が使われていたことからも、アマテラスを祭る神社であることがわかる。

 先月の緑蔭講座で宿泊した麻吉旅館は外宮と内宮の間に位置するあいの山に発達した古市遊郭の名残であるが、このような急峻な山道をわざわざ参道に選んだのは、ここが伊勢の中で畿内にあたる場所であり、外宮山頂に没する太陽を拝める場所だからである。

 ここには伊勢に神宮を定めたと伝えられる倭姫の陵墓もあり、その近くには近年隠岡遺跡が発見されているのはこの説の一つの証左である。

 その後の質疑の中では、神話上の天皇の系譜や、仏教と神道の関係について、また明治以降の国家神道が伊勢神宮像を大きく変えたことなどが話された。(文責:KA)

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2013年11月例会

日 時:11月21日(木)19:00〜20:30
場 所:名古屋国際センター 第3研修室(名古屋国際センタービル)
テーマ:「Enjoy the犬山祭り 〜60万人が訪れる犬山祭りを100倍楽しむ裏話と地域活性の役割〜」<講 師:大薮 明良 氏 (犬山祭り本町組 後見)

開催案内

 生まれが犬山城の麓であり、生まれた時から犬山祭りと関わり合いを持つご経験と様々なご経歴をお持ちの、大薮氏ならではのお話しを、犬山祭りだけに留まらず、名古屋を中心とする山車祭りの歴史と地域の役割を織り交ぜながらご講演いただきます。

等々、インターネットで調べても情報を入手する事ができない、そんな裏話もいたします。

講師プロフィール
昭和58年(1983) 犬山祭本町組てこ(曳き手)デヴュー
昭和61年(1986) 可児自動車学校 入社
昭和62年(1987) 江南自動車学校 入社
平成12年(2000) 犬山祭保存会企画委員
平成13年(2001) 犬山祭本町組の車山の綱割
平成14年(2002) ドゥドライビング自動車学校設立
平成15年(2003) TMO犬山まちづくり鰍fM
平成15年(2003) TMO犬山まちづくり株式会社設立GM
平成17年(2005) 犬山祭本町組の車山の後見
平成17年(2005) 愛知万博 山車100両総揃え
平成18年(2006) 愛知北エフエム放送叶ン立局長
平成25年(2013) アイデア総合企画主宰 現在に至る

その他 経歴
交通安全講話講師、交通安全教室、自動車学校のコンサルティング、その他コンサルティング・セミナー講演・議員弁士、名古屋経済大学講師、青年会議所例会講師、倫理法人会講師 など

講演内容

 七代将軍徳川家継に世継ぎの子が無く、本来なら御三家筆頭の尾張藩主が将軍に出されるはずであったが、当時、尾張七代藩主の宗春は規制緩和政策が評価されず、一方、紀州の吉宗は藩の緊縮財政に成功していたことが評価され、吉宗が八代将軍となった。それ以来、宗春は中央の吉宗に反発していた。

 徳川吉宗が、享保6年(1721年)、「享保の改革」の一環として、御新規法度の御触書を出して全ての分野の機械や機器の発明や改良を禁止したのに対しても、宗春は放漫財政を取り続けた。生来の派手好き、祭り好きという気性も相まって、史上最大規模とも言われる東照宮祭を開催し、享保の改革で仕事を失っている京の優れた、からくり人形師を呼び寄せて精巧な山車からくりを行った。禁止事項ではない「祭礼」という名目の下、木材の集積地という立地条件もあったことから、この地方独自のからくり文化が発達した。

 その後、東照宮祭のからくり技術は尾張藩の影響下にあった各地に渡り、現在でも犬山、知多半島、美濃を始めとする中部各地の祭で受け継がれることになった。一方、京都の祇園から長浜や金沢へと渡ったからくり技術は、尾張藩とは別の発展をとげ、富山や飛騨にも伝わり、高山祭をはじめ各地で受け継がれた。このように、江戸時代に街道を渡って2つの「山車からくり」のルートが受け継がれることになった。

 犬山祭りの山車曳きのルーツは名古屋の東照宮祭りにあるが、名古屋城の山車に比べて犬山の山車の背高が高いのは、名古屋城の城門は屋根部がある為に山車の高さに制限があったのに対して、犬山藩は財政的な理由から城門に屋根部を付けられなかった為である。

 曳き手が着ているパンツの格子柄には、石職人が岩から石を切り出す切子を形取ったデザインと共に、屈強な男衆にしか山車を曳くことができないことから弁慶が着用していたとされる弁慶格子というデザインが施された。

 また、犬山祭りの夜車山(よやま)の提灯は365個と言われているが、実際に夜車山に取り付けられている提灯は250個もない。その由縁は、その昔、車山に連れ添って町を練り歩く町内会の人や多くの関係者が手に持って歩いたために365個と言われるようになったものである。

 犬山祭りは、名古屋近郊という土地柄の理由もあり、毎年60万人を超える見学客が訪れる祭りとなったが、犬山の城下町に位置する各町内会に山車の運営がされている為に、人数に限りがある町内会では財政不足との噂もある。歴史あるこの文化を守りつつ、重要文化財を残していくためにも、時代の流れに合わせつつ、新しい考えを取り入れながら、後世に伝えていきたいものである。(文責:KT)

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2013年12月例会

日 時:12月18日(水)19:30〜21:00
場 所:I.C. Nagoya 教室 47番教室(名駅永田ビル4階)
内 容:情報交換市
 会員が最近の話題を持ち寄り、参加者で談義しました。

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